平成十九年三月二十一日水曜日

日本では義務として中學校から授業で最低三年の英語教育を受けることになってゐる。小學校からの最低九年間の國語教育によってなんだかんだと屁理窟をこねて現代假名遣を肯定してゐる人は數知れずゐるけれど、さういふ人は、例へば英語の"should"とか"enough"とか"daughter"みたいな單語の存在をどう思ふのでせう。あるいは"night"とか"knife"とか"girl"とか。これらはある發音が固定されてゐる語だから綴りを覺えればよいだらうけど、"read"などは時制の活用に據って發音が變ってしまふ。大抵こんなのは參考書に注意すべき單語として採上げられてゐるので覺えることは十分可能だけど、これで表音的だとは言へない。もちろんこれらは古語から現代に移變る過程で發音が變化したものだから上に擧げた綴りは正當な理由があると言へるのだらうし、俺はネイティヴスピーカーではないのでネイティヴの納得できる表音表記を提示することはできない。

しかし生まれてからずっと日本語で話し考へ書いてゐる者としては、日本語の音韻と機能から考へて、動詞のハ行活用と「ゐる」だけは斷乎として讓れない。ほかの語の表記についてはそれぞれの現代での發音と機能をみて合理的な"新しいかなづかひ"を考へる餘地があると思ふが、さういった事情を考へぬままに表音主義者や漢字廢止論者らが中心になって策定した表記法が"現代かなづかい"であり、やはり肯定できるものではない。これからの日本語表記を創るためには眞赤な根性の連中ばかりでなくて眞面目に取組まれるべき問題のはずだけれど、一度決ったことにはとことん保守的になれる國民に提起するにはどうすれば良いのだらう。しょっちゅう變るのは問題だが、こんな粗惡な表記を守ることなんかないのに。

追記

屡々戰前にも間違ったかなづかひが横行してゐたことを歴史的かなづかひを否定する材料に用ゐる輩がゐるが、戰後に教育は改革されたのではなかったか。